[大同炭鉱・万人坑]


私は、1994年初秋に大同市郊外にある炭鉱を訪ねた。抜けるような青空に向かって、小高い丘を登って行った。その中腹に大きな鉄の扉が現れる。そこは旧い坑道の入り口。上に大きく「万人坑」の看板が掛かっている。その横の壁に[“万人坑”簡介]の案内板が取り付けられてある。
 そこには、1937年7月に日中戦争が勃発すると、いち早く大同に侵攻した日本軍が占領した炭鉱と書いてあった。その説明によると、1937年から1945年までの八年間にわたる日本軍支配による「人を石炭に換える」野蛮な実体が詳しく記されている。
 その頃は訪れる人が少ないのか、鉄の扉は鎖錠されていた。山西大学から同行してくれた外事処の趙さんが管理人を捜してくれ、開錠してもらった。しかし、趙さんは坑内に入らなかった、と言うより見るに忍びなく、入れなかったのかも知れない。
 坑内は天井に裸電球が一つ、薄暗くて何も見えない。管理人が坑道を照らす照明灯をつけてくれた。足元から照らし出された光景はこの世とは思えない、正に「地獄」だ。手を伸ばせば届く程の近くから、重なり合ったミイラは何層にもなり、深い坑道の奥に累々と繋がっている。炭鉱夫は怪我や病気で働けなくなると、着のみ着のまま投げ込まれた。まだ息をしている。助けを求め坑道をよじ登り坑口まで這い上がって来る。しかし、柵に阻まれ力尽きたのだ。ミイラの表情はみな
苦しみもがいた形相であった。
 私は「ミイラ」を見ると思い出すのが、テレビで見たエジプトのピラミットにあるミイラだ。そこのミイラも毒殺されたものは、苦しみもがいた形相を残している。この「万人坑」のミイラも同じだ。

 それから数年後、この大同炭鉱にまつわる奇妙な事件を聞いた。それは「蟻の兵隊」であった奥村和一さんからの話だ。
 1945年8月、この大同炭鉱を支配していた日本軍は敗戦となるや、管理人、病院の医師、看護婦、職員等と共に炭鉱から撤退を始めた。しかし多くの家族には子供がいた。急ぐ帰国には子供は足手纏いだ。そこで子供たちを集めた。トラックの荷台に乗せ、走り去った。何処かに行った。しばらくしてトラックは戻って来た。その荷台は「空」であった。
 姿を消した子供たちは何処に行ったのか。廃坑となった坑道に投げ込まれたのか。何処かで皆殺しにされたのか。
 身軽になった大人たちは、引き揚げ船の来る港を目指した。しかし、列車は満足に動いていない。野宿を重ね歩きに歩いた。食料は無くなる。何か月もの乞食同然の逃避行。日本にたどり着くまで何人も命を落とした。
 奥村さんは、この事実を知り何回となく大同炭鉱を訪ね調査した。しかし、その事件を知る人はいなかったという。国内でも関係者を捜したが名乗り出た人はいない。それは残留孤児を生んだ満州開拓団の引き揚げと同様である。親は自分が残してきた子供について、どうしたかは一切話をしない。日本政府は記録も資料も無いという。ようやく看護婦であった方を見つけ尋ねた。しかし、彼女は「知らぬ存ぜぬ」で、真相を話してくれなかった。
 「つらくて黙す人生があれば、語って再生する人がいる。時代体験といった大それた話でなくても、語れば誰かが学ぼう」(天声人語)
 私は奥村さんとは、1970年代に中国との国交回復運動で、埼玉県日中友好協会が取り組んだ活動の一つであった「中国物産展」を開催した時からの友人であった。この話は、私が所沢市にある「中国残留孤児定着促進センター」に勤務していることを知り、尋ねてきた時に聞いた話だ。当時「残留孤児センター」には大同市からの残留孤児も入所していた。しかし、孤児がこの「万人坑」の事件を知っている筈はない。その孤児の親族か身元引受人の方が大同市に住んでいたか、それを奥村さんは知りたかったのだ。敗戦前の大同市には、鉄道関係、工場関係などに多くの日本人が就業し居住していた。その親たちも子供を残して帰国した人は多い。
 しかし、孤児の関係者でこの事件とか情報を知っている人は居なかった。

 2019年9月、私は再びこの大同炭鉱を訪れた。「万人坑」のある丘の麓には、以前は無かった立派な記念館が建っていた。生憎く館内は改装中で参観することができなかった。
 しかし、、丘にある「万人坑」は参観できるという。砂利道を登って行くと広い階段。その上に真新しい記念堂が建っている。その背後の丘には、前に無かった墓石が頂上なで林立している。
 堂内には、当時の写真や資料が展示され資料館にもなっていた。まず坑道にミイラを見に急ぐ。すると坑道は大きなガラスに覆われてミイラに近づけない。手前は良く見えるが奥に方は暗く見えにくい。ガラス越しなのか、初めて見たときの衝撃は伝わってこなかった。
 堂内を一巡しながら、前に見た「万人坑・簡介」を思い出した。そこに「万人坑」の歴史が書いてあった。日本の敗戦時、この炭鉱にあった20数箇所の廃坑に炭鉱夫は六万余人が埋められていた。過酷な労働は一日十数時間。怪我や病気で動けない炭鉱夫が続発した。坑夫が不足すると日本軍と漢汗が各地に赴き農民を拉致してきた。近くは山西省から、河北省、河南省、山東省、遠くは江蘇省、安徽省等とある。
 富士見市日中友好協会が、希望工程事業で失学児童の援助をした臨県で、私が訪れた里子の住む山村の安則村からは、1942年冬に多数の農民が拉致されたと「臨県誌」に記録がある。また、上陽希望小学校のある五台県で、教育関係者の方から聞いた話では、故郷の「白求恩記念館」が有る地方に日本軍が侵攻し、村の龍王廟を焼き払った。そして食料を強奪し自分の祖父と農民の二人を拉致したという。
 この記念堂(万人坑)に眠るミイラにもみな名前があり、それぞれ住み慣れた故郷がある。現代の科学、医学によれば[DNA]検査などで身元は判るのではないのか。既に埋葬された20数箇所の「万人坑」を掘り返しての調査は不可能と思うが、せめてこのミイラだけでも検査・調査し、拉致した地方を割り出し確認することは可能だ。故郷には、今も拉致されたことを忘れない子孫や親族がいる。生まれ育った安住の地で眠ることをミイラは望んでいるのではないのか。
 しかし、「故郷に帰してやりたい」などと思うのは、加害者民族である私の勝手な考えだ。被害者の中国人民にしてみれば、これは永遠に忘れてはならない事実なのである。そして、これは世界平和に役立てると願っている。
 私は記念堂を出て階段を降りた。そして振り向いた。しばらく丘を見上げ、林立するする墓石に黙祷。
 何処かに埋葬されている「子供たち」に合掌。